東京でも、大阪でもない。福岡県の南部、筑後川が流れる街、久留米市。実は、日本の、いや世界の靴好きたちの間で、この地方都市の名が、特別な敬意と共に語られていることを、あなたはご存知でしょうか。その理由は、この街に、1873年(明治6年)から、実に150年近くにわたり、ひたすらに実直な靴作りを続けてきた、一人の“巨人”がいるからです。その名は、「MOONSTAR(ムーンスター)」。
多くの人にとって、ムーンスターは、子どもの頃に履いた「上履き」や、学校の体育館シューズの、どこか懐かしい記憶かもしれません。しかし、現代のファッションシーンにおいて、ムーンスターは、全く新しい文脈で、熱い視線を浴びています。それは、流行を追いかけることとは無縁の、揺るぎない品質。そして、プロフェッショナルのための「仕事靴」に宿る、飾りのない「用の美」。
この記事は、あなたがまだ知らない、ムーンスターというブランドの、真の姿を解き明かすための、特別なドキュメンタリーです。なぜ、彼らの靴は「メイド・イン・久留米」を誇るのか。なぜ、その製法は“焼き物”に例えられるのか。そして、なぜ、厨房や市場で働く人々のための靴が、今、最もおしゃれなアイテムとして注目されているのか。その答えを知った時、あなたはきっと、この不器用で、しかし、あまりにも誠実なブランドの、虜になっているはずです。
【第一部】「メイド・イン・久留米」という、揺るぎない誇り
ムーンスターの物語は、創業者・倉田雲平が、座敷足袋の製造を始めた1873年にまで遡ります。やがて、ゴム産業が盛んであった久留米という土地の利を活かし、地下足袋の製造を開始。以来、学生用のシューズから、ナースシューズ、そして、厨房で働く人のためのキッチンシューズまで、ムーンスターは、常に、そこで働き、学ぶ「人々」の足元に寄り添い、その生活を支えるための、実直な靴作りを続けてきました。
グローバル化が進み、多くのメーカーが生産拠点を海外に移す中で、ムーンスターは、今もなお、この久留米の自社工場で、一部の高品質なスニーカーを作り続けています。「メイド・イン・久留米」。その言葉は、単なる生産地表示ではありません。それは、150年近い歴史の中で、この土地の人々と共に培ってきた、技術と経験、そして、履く人のことを第一に考える、という、ブランドの揺るぎない誇りの証なのです。
【第二部】窯が生み出す、しなやかな“焼き物”。ヴァルカナイズ製法とは
「メイド・イン・久留米」の誇りを、物理的な形で証明しているのが、「ヴァルカナイズ製法(加硫製法)」です。これは、1839年に発明された、非常に古く、そして手間のかかるスニーカーの製造方法。現在、この製法を、その本来の姿で実践できる工場は、国内にごく僅かしか残っていません。
具体的には、アッパー(靴本体)と、まだ柔らかい状態のゴムソールを、職人の手で丁寧に貼り合わせた後、約120℃の「窯(かま)」の中に入れ、熱と圧力を加えて、化学反応を起こさせる製法です。このプロセスは、まるで陶磁器を窯で焼き上げる工程に似ています。
この、時間と手間を惜しまない製法によって生み出されたスニーカーは、現代の一般的な製法では実現できない、3つの特別な価値を持ちます。一つは、ゴムとキャンバスが強力に結合した、**「壊れにくい、丈夫さ」**。二つ目は、ゴム底が持つ、本来のしなやかさを最大限に引き出した、**「柔らかく、美しいシルエット」**。そして三つ目は、そのすべてが、熟練の職人の手仕事によってしか生み出せない、精巧で、**温かみのある「作りの良さ」**です。
【第三部】久留米の哲学を履く。ムーンスター、珠玉のレーベル名鑑
ムーンスターの真価は、その多彩なレーベル(ブランドライン)にあります。ここでは、大人の女性にこそ知ってほしい、3つの代表的なレーベルをご紹介します。
SHOES LIKE POTTERY – “焼き物”のような、美しい日用品
その名の通り、「焼き物みたいなくつ」をコンセプトにした、ヴァルカナイズ製法の美しさを最も純粋な形で表現するレーベル。一切の無駄を削ぎ落とした、ミニマルで普遍的なデザイン。そして、かかと部分に、まるで封蝋(シーリングワックス)のようにあしらわれた、水色のロゴマーク。その佇まいは、もはやスニーカーというよりも、丁寧に作られた、美しい「日用品」です。日本のミニマリズムや、民藝の思想にも通じる、静かで、しかし、圧倒的な存在感を放ちます。

810s (eight-tenths) – プロの“道具”を、日常の“相棒”へ
今、最も注目されているのが、この「810s(エイトテンス)」です。これは、「腹八分目(8/10 = eight-tenths)」をコンセプトに、ムーンスターが長年培ってきた、厨房や病院、工場といった、プロフェッショナル向けの「専門靴」の機能性を、日常使いに、ちょうど良くリデザインした、全く新しいレーベルです。プロの現場で求められる、本物の機能美を、驚くほど手に取りやすい価格で、私たちの日常にもたらしてくれます。

KITCHE (キッチェ)
厨房で働く料理人のための「キッチンシューズ」がルーツ。油や水で濡れた床でも滑りにくい、特殊なソールを備え、アッパーは、汚れに強く、手入れが簡単な素材で作られています。その、徹底的に無駄を省いたスリッポンタイプのデザインが、ミニマルで、非常に現代的であると、ファッション好きの間で人気に火が付きました。

MARKE (マルケ)
市場などで履かれる、作業用のゴム長靴を、スタイリッシュなモックタイプのブーツへと再構築したモデル。着脱のしやすさと、雨の日でも安心の機能性、そして、どんな服装にも馴染む、ソリッドなデザインが魅力です。

ALWEATHER – 雨の日を、楽しむための“全天候型”
ヴァルカナイズ製法で作られたキャンバススニーカーの弱点である「水濡れ」を、大胆な方法で克服した、画期的なモデル。キャンバス地のアッパーの下半分を、ラバーでぐるりと覆うことで、雨やぬかるみでの水の侵入を完全に防ぎます。まるで、キャンバススニーカーと、レインブーツが融合したかのような、そのユニークで美しいデザインは、雨の日のお洒落を、もっと自由に、もっと楽しくしてくれます。

【第四部】履きこなしの流儀。「用の美」を、どう纏うか
ムーンスターのスニーカーが持つ、実直で、飾らない「用の美」を、現代のファッションに落とし込むスタイリング術です。
「810s」と、ワークウェアの幸福な関係
プロの仕事道具をルーツに持つ「810s」は、やはり、ワークウェアや、ユニフォームをベースにした服装と、最高の相性を見せます。例えば、ハリのあるコットンツイルのワイドパンツや、リネンのエプロンドレス。あるいは、シャンブレー素材のシャツワンピース。そうした、働く人のための、誠実な服と合わせることで、「KITCHE」の持つ機能美が、最も自然に輝きます。
「SHOES LIKE POTTERY」と、日本のミニマリズム
工芸品のような佇まいを持つこの一足には、同じく、日本の美意識を感じさせる、ミニマルな服装が似合います。例えば、無印良品や、マーガレット・ハウエルのような、上質で、シンプルな天然素材の服。あるいは、YAECAやCOMOLIのような、日本のドメスティックブランドが作る、ゆったりとしたシルエットの服。その静かな世界観の中で、スニーカーの持つ、作りの良さが、静かに際立ちます。
まとめ:ムーンスターを選ぶ。それは、日本の“実直さ”に、敬意を払うこと
ムーンスターのスニーカーを選ぶということは、華やかな広告や、一過性のトレンドに流されることなく、靴という道具の、最も本質的な価値に、敬意を払う、という行為です。それは、150年近い歴史の中で、久留米という土地で、ひたすらに実直なものづくりを続けてきた、無名の人々へのリスペクトでもあります。
その一足には、最新のテクノロジーは搭載されていないかもしれません。しかし、そこには、時間と、手間と、そして、履く人のことを想う、誠実な心が、たっぷりと込められています。その、無口だけれど、温かい魅力を理解した時、あなたは、本当の意味での「良い靴」とは何か、という、一つの答えに、たどり着くことができるでしょう。